ハンズ・マイ・ヒストリー《取締役が語る軍手1つ(260円)から始まった物語》

『3日でやめよう』
『やめたくなったらいつでもやめよう』
と、気軽に始めた
荷揚げのバイトから役員へ
挫折と成長と人の繋がりの物語
From:株式会社ハンズ取締役 鈴木新
誰もいない本社オフィス:
午後9時18分
【株式会社ハンズ 鈴木新 取締役プロフィール】
1972年生まれ 新潟県新潟市出身
5人兄弟の次男高校卒業時に進路に迷い、地元で一年浪人生活を送るも、結局ラーメン屋のバイトに明け暮れ進路も定まらず。
受験3か月前に一応勉強し、無事横浜の私立大学経済学部(2部夜間)に入学、上京。
授業に通いつつ、昼間はアルバイト生活で、偶然手に取ったデイリーアン(バイト情報誌)で見つけたハンズの前身となる『有限会社クラブ・リッツ・アルファ』で荷揚げのバイトを開始する。
(株)ハンズ取締役の鈴木です。
もしかしたら、今、これを読んでいるあなたは荷揚げの仕事をやろうかどうか迷っている人かもしれません。
今から30年ほど前の私、もしかしたらあなたと同じように、取り敢えず何か稼げる仕事を探していました。
今回は、私が大学に入学した頃に何気なく始めた荷揚げのバイトのことや、それからつながる人との出会いを通して、揚重の仕事のことや株式会社ハンズについてお伝えできればと思います。
最初に断っておきますが、その当時と今では労働環境や法律も会社の体制も違います。当時の状況をあるがままにお伝えしますが、その辺の状況の違いをご理解しながらお読みいただけると幸いです。
『やめたくなったらいつでもやめよう』
と気軽に始めた荷揚げのバイトで
田舎にはない稼ぎに目が飛び出る
時は1990年代の初頭。
バブルという日本中が浮かれていたお祭り騒ぎも終了した頃。
1浪の末、横浜の私立大学の2部に潜り込んだ私は、生活費を稼ぐという名目で
『何か稼げるバイトはないかなあ』
とデイリーアン(当時のバイト求人情報誌)をパラパラめくっているときに、目に飛び込んできたのが荷揚げのバイト
高収入も可能 8:00~15:00
7,000円 交通費別途支給
の募集。
時給換算1,000円(田舎もんとしてはまずまずグッドな条件)
大学にも支障はない。
面接を受けると即合格!
と入社したのが現在ハンズの前身となる有限会社クラブ・リッツ・アルファでした。
荷揚げのバイト初日
なんか怖そうな雰囲気が漂う先輩の人に付いていき現場へ。
この日は特段厳しい現場ではなく無難に終了。
ただやはりなんとなくだが大変そうな職場という気がして、直感的に
「3日でやめよう。やめたくなったらいつでもやめよう」
と思ったのを今でのよく覚えています。
荷揚げのバイト2日目
石膏ボードを階段で揚げる。
あちこちにボードをぶつける。持ち方、持つコツが分からない。先輩の足を引っ張っているのがよく分かる。
ただし先輩はあまりきびしくなかった。
この日は木曜日で大学の授業がないので、午前の現場が終了次第、午後の現場にいくことに。午後も先輩の下でなんとかクリア!
次の日、前日のこの日の分を翌日払いでもらった
2現場分の給料がなんと13,500円(しかも交通費別途)!!
田舎にはない稼ぎ高に、内心
『すっげー』
と目が飛び出る。
高校時代に近所の和食レストランで時給350円(多分当時も最低賃金法違反)でバイトした経験もあり、また工場でのバイトでも500円そこそこが相場の新潟とのギャップに驚嘆。
荷揚げのバイト3日目
本当に3日で辞めるのか?!
まだまだ不慣れはもちろんだが、2日目より少しサイズの小さいパーチクルボードを運ぶ。
一生懸命やっていたら、その日の先輩から
「お前何日目? 3日? すげーな」
とべた褒めされる。
おだてにはとことん乗る性格なのでさらに頑張り、
「おれ結構イケる!」
とやや勘違いして「3日で辞める」は撤回。
まあ、いつでも嫌になったらやめればいいやと。
小中サッカー部、高校の後半部分で1年を空手部で体を鍛えていたことがここで発揮されたのだ!
ただし、先輩ベテラン方々はモンスター級の集まりだった。
荷揚げのバイト20日目
握力が切れ、筋力の限界
3人の先輩は超モンスター級だった
毎週木曜日は大学が無い日で、朝から現場入りする。
朝の集合で先輩に呼ばれる。
「鈴木って誰?」
「俺です」
「何日目?」
「20日くらいです」
そう答えた私に、とても分かりやすく嫌な感じが伝わってくる。
20日目程度の新人がこなせる現場ではなさそう・・な嫌な予感。
案の定、その日の現場は通常10人分の仕事量。それが全員で4人しかいない。
しっかり全うできれば2.5人分の給料は手に入るが・・現場は厚木米軍基地の敷地内。
一旦入ると退場も容易ではないのだ。
「お前次第だからな!」
とぶっきらぼうに冷酷に言い放つ先輩の言葉の裏には、先輩にとっても厳しい試練があるのだが、当時はそれを知る由もなく生きた心地がしなかった。
しかしもう逃げ場はない。
腹をくくって開き直る。
「やれるだけやる」と。
序盤だけでも相当ハード。乱立したボードの山。終わりは見えない。先輩たちも必死。休憩もほとんどとらない。
昼食ものどを通らない。やがて限界を迎える。
気合は残っていても体が言うことを聞かない。
握力が切れた。
ボードを持ったまま壁にへばりつき、ボードを腿で支えながら
「握力きれましたー!」
と叫ぶ。
筋力の限界。
先に運んで行った先輩が戻ってきた
「よし、俺によこせ」
と助けてもらう。
少し回復してまた運んでも、もう置き場所までたどり着ける握力はなくなってしまった。
「挫折!?なんだろうこの香りは・・・。」
「甘酸っぱい青春の香り!?」
しょうがなく先輩より1枚少ない3枚で運びローテーションを1回増やし、自分のノルマ分をこなすことで運び続けた。
まだ足は動く。
すると先輩の私への反応が変わり始めた
「こいつ、意外としぶといな。新人の割にはなかなかやるな」
と。
他の3人は超モンスター級。
私が1枚減らした分を増やし5枚で運び出す。いつしか6枚、7枚と。
まだまだ体力は無尽蔵のようだ。
やがて大量にあった1500枚以上のボードが姿を消し、終わった。
「生きている」と思った。
「最後までやり切ったんだ!」
その日は先輩たちと回転鮨に行った。
先輩たちは頭の高さくらいまで皿を重ねた。
私は大して食べられなかったが、鮨を食べることより少し認めてもらえたことが何よりうれしかった。
体を使い、汗をかき
自分の持てる能力を
全開でぶつける荷揚げ
、、、悪くない。
それから徐々に慣れてくると、ノリノリになることも。
体を使い、汗をかき、自分の持てる能力を全開でぶつける荷揚げ。
悪くない。
「♪あくせく流す汗と音楽だけは止むことがなかった」(尾崎豊)
が頭の中で鳴り始めることも。
自分で努力し、工夫し、請け負った資材を運ぶ。
上司や見張り役はいない。時給でもない。やり切ったら終わり。「自分次第」。
「もしかしてこれは素晴らしい仕事かも」と思い始める。
やがて人間関係もできはじめ、同世代の、それぞれ個性ことなる人たちと、稼いだお金で飲みにいき、バカ話で笑い、自由気ままに生きるサマはいつしか自分の探し求めているものではないかとも思った(その当時は)。
同僚の誘いで波乗りも始めた。
ロスに行って波乗り、スカイダイビング、足を延ばしてラスベガス。間髪入れずにその次はバリ島へ。
波乗り三昧。これって最高!
就職氷河期真っ只中
卒業後もハンズでバイト生活。
結局、在学中も仕事は結構いそがしく、授業開始前までに2現場こなすことも多々あり。
就職氷河期も相まって就職活動もしないまま、卒業はちゃっかりやり遂げつつ、ハンズでフリーターを続ける。
その頃は、どんな現場もそつなくこなし、ベテランの中の一角を担っていた。
自惚れもひどく「現場作業はもう完璧」と思っていた。
社長からは幾度となく「社員をやってくれ」と頼まれた。その度に素っ気なく「まあいずれ」と曖昧に答えていた。
内勤の社員は、現場スタッフから見てもとても忙しそうだった。
現場もパワー・スタミナなど大変だが、社員は朝早くから夜遅くまで、我々のようなならず者たちを管理しなければならず、体力的にも精神的にも大変そう。
スタッフから何人も社員になったが何人も辞めていった。周りのスタッフは寄ると触ると会社や社員の批判。もっともな意見もあれば、ただの愚痴もある。
これでは社員も浮かばれない。
断り続けた社長の誘い。
荷揚げ経験4年半で
フリーターから社員へ
フリーター生活も1年続けると少し飽きてきた。
荷揚げ経験4年半。
もうそろそろ25歳、このままで人生いいのだろうか。そんな時、またしても社長が声を掛けてきた。
会社の事務所はその直前にアパートの一室から駅前の雑居ビルに移転。
会社っぽい。
有限会社から『株式会社ハンズ』に。
株式の何たるかも分からないが株式会社の方がカッコイイ!と思っていた。
自宅にいて夜の電話だった。社長がいつになく熱い。長い。電話を切らしてくれない。
この誘いは本気だ。
即答は避けたがこの電話の最中に内心で
「社員、やってみよう」
と腹を決めた。
社長はスタッフの声に耳を傾けてくれていたこと、紳士的で真面目で誠実なこと、勢いがあること、私自身この仕事・会社が嫌いではなくむしろ好きであること。
自分の人間関係構築において器用な面と仕事も効率よくこなす面があればスタッフが喜ぶ環境をつくれるのでないか、このような思いがあり、社長がここまで誘ってくれるならやろうと決めた。
実際当日は、社長はまだもう一押し必要だと思っており、かに道楽に連れていってくれた。
「やります」
と答えると社長は嬉しそうだった。
タイはエビで釣る。スズキはカニで釣る。
上司との衝突
過酷な社員の仕事
「辞めます」と伝えるつもりが
社長の優しさに泣いた夜
予想通り社員の仕事は大変だった。
承知の上だったが月々の給料はスタッフ時代より格段に下がる。
ただ、今まで経験したことのない裏部隊での仕事は新鮮であり、興味も湧いた。
当初は上司も気を使ってくれ、朝早い仕事は任されなかった。
負荷をかけ過ぎてすぐに辞められては困るという思いもあっただろう。
大変だったが割と要領のよい私はある程度スムーズに仕事を吸収していった。
と思ったその矢先に上司とぶつかった。
今考えても理不尽な責任のなすりつけを食らった。
今でいうパワハラのようなものだった。
やがてその鬱積がたまり、耐えきれなくなり社長に泣きついた。
いろいろその不満をぶつけていくうちに
悔しさとともに社長が電話越しに優しく対応してくれることに感情が高まり涙してしまった。
「辞めます」
という言葉を伝えるつもりだったが、自分は何のために社員になったかと言えば、その嫌な上司のためではなく、
社長の力になりたかったからだ
という原点を思い出した。
向き合うべき人・物事、勝負していくべき対象がズレていることに気づき、電話の終わりには再度頑張る意志を固めていた。
まだまだ尻の青い若造でしかなかった。
「俺にやらせてください」
新店への挑戦
「ここは俺の城だ。やってやる」
社長、上司、私しか男性社員がいない状況で《本社川崎(上司担当)、渋谷(社長担当)、あとは新米の私》で、社長が「秋葉原支店」を出すと言いだした。
その担当は当然私に告げられると思っていたがどうも様子が変だ。言ってこない。
ここで当てにされないようでは何のために社員になったのか分からない。
社長に直談判した。
「俺にやらせてください!」
社長はその言葉を待っていたそうだ。
指示してやってもらったとしても長続きしないか、途中で折れるか、やがて不満をもち良い運営にならないか、そう見抜いておられ自主的な意志が生まれるのを待っていたのだ。
もし私が言ってこなかったとしても、社長は平然とやり遂げようとされていた。
物理的には無理なはずなのに、社長の突破力は凡人が想像できる域を越えていた。
始発の電車に飛び乗り、手で持っていける道具を運び、秋葉原支店に通い始めた。
「ここは俺の城だ。やってやる」
と燃えていた。
元々自主独立が嫌いではない。
己の力が明らかに見える化できるステージも持って来いだった。
朝5時起き、6時には会社
休みの日曜日は爆睡
今でいう超ブラック企業だった
あわよくば既存の川崎と渋谷のスタッフ数を超えて、社長や上司を抜いて自分の実力をみせつけようと野心満々だった。
秋葉原支店のスタッフにも『川崎や渋谷に負けるな!』とか、冗談を含みながらだったが『死ぬ気でやってこい。骨は拾ってやる』とはっぱをかけた。典型的な体育会系パワハラ上司だ。
やがてスタッフ数が30人を超える日もでき、また営業面でも独自の顧客を獲得するなど、一定の成功を収めた。
朝5時起き、6時には会社(時々遅刻)、新人スタッフの面接、現場、営業、請求、給与計算、翌日の段取り、あらゆる仕事をこなしながら夜は21時で終わったら「早い」方で、仕事が終わる頃は日付が変わることもしばしば。
休みの日曜日は前日に酒を飲み爆睡。
自分のアパート周辺の昼間の景色を見たためしがなかった。
今でいう超ブラック企業だが、当時はそれもままある世相だったと思う。
またようやく30年経った今になってだが「若い時の苦労は買ってでもしろ」の有難みが分かってきた。
今の若者はもう出来ない経験かもしれない。お陰でそうそうのことではへこたれない「耐性」ができた。
会社は拡大路線で順風満帆
その先に待っていたどん底に
「俺はこのままで終わるのか?」
社長の勢いは止まらず、最大で8支店を1都3県で展開し、朝の稼働出面数は200人を超えた。
社長は私を評価してくれ
『新のお陰でハンズが成長できた』
と言ってくれた。うれしかった。
確かに、以前辞めることが多かった社員(大半は上司との人間関係と思っている)にも、私が中間的に立ち回ったり、愚痴や不満を聞いてあげたり、なんとか退職を踏み留めることができ、徐々に残る社員が増えてきたのは事実あった。
ただやはり会社は社長に尽きる。
社長がことあるごとに私たち社員の声に耳を傾けてくれ、紳士的に対応してくれたことは大きい。
他には仕事ぶりを評価してくれ、賞与をはずんでくれたり、私の場合はのけっから主任の肩書とすぐに課長の名刺も与えられた。
ある程度順風満帆に進んでいたが、プライベート面では悩みもあった。
また、今振り返ればだが、
過労により少しノイローゼ気味となり、今でいう「うつ病」っぽく出社できない日も発生した。
詳細はふせるが言わばどん底だと自分でも分かった。
人生の歯車が狂いかけている。
優秀な営業成績を収め、リーダーシップを発揮していた過去もあるが、次第に周囲の部下も気づくくらいモティベーションが下がっており、ついには社長からも見放されつつあった(これが非常に堪えた)。
「俺はこのままで終わるのか?」
「尻尾を巻いて田舎に帰るのか?」
奮起のステージは
原点の現場だった。
もう一度やるだけやってみよう
いろいろ迷ったが、冷静になって、もう一度自問自答してみた。
どうせ終わるなら、
もう一度だけやるだけやってみよう。
あの荷揚げのバイトを始めた学生時代と同じように
「やってだめならその時は辞めればいい」
と開き直って今一度奮起することにした。
奮起のステージは原点である現場だ。
当時問題が発生し、社員立ち合いが必要な現場があり、名乗りを上げて連日現場に向かった。
日中は現場で運び、遅く帰ってきては本社業務に加わった。
そんなハードな業務をこなし続けていくとやがて周囲の評価も回復していった。
ここにはまだ俺の居場所はある
と思えた。
IPO(新規公開株)を目指す
そして役員へ
会社はさらなる発展を遂げ、渋谷に本社を移し、リペア事業部が立ち上がり、大卒新卒も6年連続毎年10人前後採用できインターネットカフェも始めた(最大8店舗)。
まさしく飛ぶ鳥を落とす勢い。
再起を図った私も社内でのポジションを再度確立し、意気揚々と仕事に打ち込んでいた。
仕事、酒、仕事、仕事、酒の日々だ。
成長する会社はいっときこのような忙しさが襲ってくるらしい。
この時期に社長から
「IPOを目指す。ひいては役員を引き受けてくれ」
と言われた。
私以外にも3人(内2人は現場スタッフ出身で私の後輩)が役員となった。
入社以来、主任・課長・部長・本部長、そして若くしての取締役。
まだ30代前半。
リーマンショックと
東日本大震災で
倒産の危機
何故こんなことに。。
さらなる改革を推し進め、会社はより発展していく、
と思った。
あの世界を震撼させたリーマンショックまでは。
倒産の危機。もちろん上場準備中止。上司、突然の失踪。
それに続き2009年、2010年と不祥事や内乱。様々な悪い出来事が噴出しまくった。まさに波乱万丈。いったい何故こんなことに。。
経営塾での学びと再起への道のり
プロパーの人間では社長と私の2人の役員となってしまった。
2011年には東日本大震災もあり、社内も沈んだ雰囲気もあった。
しかし、私の胸の中には光があった。
それは、役員就任以来、社長が誘ってくれ、オブザーバーとして参加していた経営塾での学びだ。
そこでは稲盛和夫氏が京セラ・第二電電(現KDDI au)を一代で築き上げた経営の神髄を学べる場だ。
丁度この時期はJAL倒産からの再生・再建を80歳という高齢ながら会長職で推し進め、日本の産業史にも残る劇的な復活の道のりを我々塾生に生の手本として見せているときだった。
その経営の神髄を一言で言うなら「利他の経営」。
社長は横浜塾に籍を置き、すでに20年以上学び続けている。
私もオブザーバー時代に共感し、2012年に正式に塾生となり、すでに10年以上が経過している。
社長が推し進めてきた考え方の下、そして社長トップの人格やリーダーシップの下、チームハンズは新たな舟で海を渡る。
その後も多少の紆余曲折はあったものの、人生の、そして経営の目的を明確にし、善い考え方を軸においてきたことにより(修業はまだまだ足りないが)、そして何より社員・スタッフが必死に頑張り会社を盛り立ててくれて、2020年6月期はハンズ史上最高の業績を出すことができた。
個人的には、経営塾のご縁で妻と出会い、息子にも恵まれた。
今後も経営目的の第一番目は
「全従業員の物心両面の幸福の追求」
この先も幾多あるだろう困難も、仲間のために、その幸せのために誠心誠意立ち向かっていく、それがハンズの、私の、使命。
振り返り思えば、あの日あの時260円の軍手をはめたアルバイトから、私のすべてが始まった。
3日で辞めずにがんばってきてよかった。
社長とのご縁がなければ・・・(ゾッとする)
中国の言葉だろうか、こんな言葉がある。
「縁尋機妙」えんじんきみょう
良い縁がさらに良い縁を尋ねて発展していく様は誠に妙なるものがある。
「多逢聖因」たほうしょういん
いい人に交わっていると良い結果に恵まれる。
私の社長と出会ったハンズ人生を表す言葉だ。
類は友を呼ぶ。ハンズはこれからも沢山の出会いを求めつつ、一緒に幸せを追求し合う仲間と切磋琢磨していきます。
ハンズ社名の由来
手と手を取り合って共に生きる。
株式会社ハンズ 取締役 鈴木新
『鈴木新 ハンズマイヒストリー』は
(株)ハンズの採用専用サイトの企画段階で、会社の沿革や概要を載せるよりも、
もっと、赤裸々にハンズの歴史を語れないかという企画案が出ました。そこで、(株)ハンズの前身となる会社で荷揚げのバイトから始めて、現在、弊社の取締役となったハンズの生き字引のような鈴木取締役に本音トークで語ってもらいました。
最初は気軽に始めたバイトから、正社員、管理職、役員となり、荷揚げ業界の重鎮とも言える鈴木取締役のぶっちゃけ話いかがでした?
たったひとつの出会い、たったひとつの行動がその後の人生を大きく変えるお話でした。
ハンズは本気の人を応援する会社です。
少しでもハンズに関心を持ってもらえたのなら、今度は面接であなたの話を聞かせてください。